V.もう一人の天才 つづき

将棋では定石の存在が大きいとされ、初級者はこの定石を学ぶことによって上達していく。 定石は、主に序盤戦術に関するものが多く、将棋そのものの軌跡である。そして、多くの棋士たちが研 究してきた集大成でもある。序盤戦は定石の存在が大きく、かつては中終盤を制する者が対局そのもの を制していた。中終盤の研究に時間を費やすのが一般的と考えられ、終盤での逆転を意味する「羽生マ ジック」なる言葉はそれをよく表している。 ところが、そこに大きな風穴を開けたのが、猛九段だったのである。将棋は、戦法として居飛車戦法と 振り飛車戦法に大別されるのだが、当時の振り飛車党にとっての天敵が居飛車穴熊という戦法であった。 それを打ち破るべく研究されたのが、「藤井システム」という当時の将棋界の常識を覆すような戦法だ ったのだ。 この戦法は、序盤戦からの一手一手を神経質に進めていかなければ、途中で大変な落とし穴が待ってい るという前代未聞ともいえる戦法だった。この戦法をひっさげ、猛九段は将棋界の頂ともいえる竜王位 にまで上りつめたのであった。 猛九段の登場以前は、「終盤は村山に聞け」と言われていたものが、この後「序盤は村山に聞け」と変 遷したほどだから、研究主体の変化もよくわかる。ちなみに終盤の村山は映画化された聖九段であり、 序盤の村山は慈明七段のことであり、現在の棋界の第一人者である羽生三冠は、慈明七段と研究を行っ ている。 その後は、序盤戦の研究がいかに重要なのかが再認識される結果となったわけだ。 人はとかく既成概念や先入観にとらわれてしまいがちだ。それを看破できるのが天才の天才たる所以だ。 もっとも、コンピュータもそんなものは持ち合わせていない。猛九段の登場とコンピュータソフトが、 将棋というボードゲームで人を凌駕する時代の到来とは無縁ではないような気がする。

(覆面ライター 辛見 寿々丸)