V.「江夏の21球」

20世紀も終わりに近づいたある夜のことだった。とび乗ったタクシーの車中ではラジオからプロ野球 の中継放送が流れていた。僕が目的地を告げた後、運転手さんとの野球談議がしばらく続いた。と、そ の運転手さんはおもむろに僕に問いかけたのであった。「お客さん、20世紀で最も優れた投手は誰だ と思いますか。」と。 僕はとっさに、「江夏豊」と返した。理由はいくつかあったのだが、「江夏の21球」という物語が特 別に強く印象に残っていたのがその大きな理由であった。 今年、元プロ野球選手が薬物事件で逮捕された。その時、僕の頭に真っ先に浮かんだのは「江夏豊」の 名前だった。と同時に翌日の新聞紙面には間違いなく彼のコメントが掲載されると思ったのだ。 翌日の朝日新聞には実名でコメントが掲載されたのだが、他紙では似たような記事ではあるものの実名 は伏せられていた。 もっとも過去の罪を償って更正した人物の実名を伏せるというのは当然の配慮があってのことだろう。 とすれば、本人が堂々と実名でのコメントを承諾したのもそれなりの意味があってのことであるはずだ。 なぜなら、彼には自分を過去からずっと支え続けてくれた大親友の存在があり、それを強く意識しての ことだったと推察する。 この物語は、79年の日本シリーズでの出来事である。その時の僕はといえば、なぜか晴海のモーター ショー会場で焼きそばを焼いていた。モーターファンの「ジミー」は当然のごとく毎日のように顔を出 していたのだが、そこに車には全く興味のない「ショウ」の姿がいつもあった。

(覆面ライター 辛見 寿々丸)